昭和49年03月12日 朝の御理解



 御理解 第15節
  「氏子が真から用いるのは神もひれいじゃが、寄進勧化をさせて氏子を痛めては、神は喜ばぬぞ。」
 
 これだけお供えをしなければならんとか、お供えを如何にもせにゃ居られん様に言ったりして、いわゆる寄進勧化をして、いうなら勧進帳を持って、あの貰に歩くといった様な事をお道では致しません。けれどもそれが信者の真心からどうぞ使うて下さいと、氏子から用いるのは神もひれいじゃが、この神もひれいじゃが、寄進勧化をさせては、させて氏子を痛めては神は喜ばぬ。確かに氏子を痛める事になりますよね。
 よくあの○○教会の、大きな御普請があったという様な時に、矢張りその無理ないわゆる寄進勧化に、にも似た様な例えばお供えをしたり、させたりする事によって、その家が潰れたり、店が潰れたりする例は幾らもあります。これは神様が喜ばれぬ印し、証拠であります。また氏子を痛めると、確かにそれは氏子を痛めた事になるのです。ただあくまでも矢張り真、真心が大事、しかも真、真心だけではいかん。同じく真、真心で用いるという心が生まれて来なきゃいかん。
 どうぞ使うて下さいというものが生まれて来なきゃならん。そこに神の威徳とぶつかる。神のひれい盛大の意と。いわゆるお徳を受けるというのは、私そういう意味だと。昔の、昔とか今でも言われるんですけれども、御用して徳を受けるといった様なのはね。御用をさせて徳を授けるとか受けられるというのではない。真、真心を持って御用をさせて頂かなければ居られん、どうぞ用いて下さいというのであるなら、矢張りお徳を受けるだろうと思いますね。
 これは間違いなく御徳を受ける。だから本当の御用になり、本当の御用をさせて貰うということは、いうなら神様の願いがある意味において成就する事でもあるのですから。それは徳を受けます。けれどもお徳受けたいと思うて御用するとか、おかげ頂きたいと思うて御用するとか、または取次者または先生が、無理にお供えをさせたりしたのであってはおかげにならん。いわゆる怪我をする。怪我をすると言う事は、氏子を痛める事になる。それで信心を止めたりする様な結果になったり。
 いわゆる田地田畑を売ってしまったといった事に成ったりするのです。だからどこまでも氏子が真から用いると言う所、真からそれをそうさせて貰わなければならない、だからここん所は、私は金銭と言う事だけではないと思うですね。物とか金銭とかと言うだけの事ではない。所謂この体を用いる、体を使うて下さい、ね、それが私はあの真でそうなられた時に、神様も言うならば喜んで下さる、イキイキとして、御ひれい、神のひれい神の威徳とこういう、神の徳に接する事が出来る。
 そこから私はお徳が受けられる。お徳を受けた受けるという様な人達はそうだと思うんですね。渋々とお供えをしたり渋々とその、例えば御用をさせて貰うたり、もうそれこそイキイキとした有り難い勿体ない、そうさせて貰わなければ居られないという心で、それがなされる時に、御用に使うて頂く時に初めてお徳を受ける、ということはそういうことだと思います。
 御用すりゃ助かると言った様な事の内容です。成程そういう、今日私今申します様な内容を持って御用すりゃ助かる事になると思うのです。私は今日こんな事を思うた。私は二重人格じゃなかじゃろうかと。例えば私が朝4時の御祈念を奉させて頂く前に、控えに控えておる時から4時の御祈念の、間の私の心の状態というものは、どう自分でも説明してして良いか分からないね。そんな気持ちで、あの今日は御神前に出らせて頂いたら、もう三十年も以上になりましょうか、先代のあの松本幸四郎です。
 今の幸四郎のお父さんです。先代の幸四郎の晩年の頃のお芝居を久留米で見ました。その時に今市川小太夫という役者、あの人と二人で連獅子を舞いました、久留米で。そりゃあ皆さんもご承知でしょうと思いますけれども、連獅子というのは親、親子の獅子がこう、非常に激しい動きの舞です。そん時に私がお弟子さん達がね、花道の向こうの揚幕の向こうまでも、両手を支えてこう連れて来るです。はらあんなに弱い、しかもあんな衣装を着けてですね大きな、もうやっとあのう花道の向こうの揚幕の所に。
 愈々なら太鼓が入り鼓が入り、鳴り物が響いてまいりまして、揚幕がぱぁっと上がった途端に、ぱっともう姿勢、もう私は是には驚いたです。いわゆる芸の力とでも申しましょうかね。もう親様がの手をはずして、その鳴り物がなった途端に揚幕がぱぁっと上がった。さっと向こうで構えた時の姿勢というか、そしてあの中すうっと花道を舞台に向かって進んで、そしてあの激しい舞をまだ小太夫が青年の頃ですからその青、青年とそういう年、年取った幸四郎がね、連れ舞をする訳ですね。
 本当にそん時に非常に私はあの、感心した事がありましたが、その時の事を頂くんです。例えば私がね4時の御祈念なら4時の御祈念の時に、御神前に出る時にはね、もう本当にいうならば、まあやっとかっと来とるかも知れません。なら有り難くないかも知れません。けれども愈々私が控えに入っての30分間、そしてあの御神前に出る時のはね、ちょうどそんなものだと、今日あのその事を頂いて、ははあして見るとこりゃ、二重人格じゃなかばいのというふうに思うたっです。
 と思われるくらい嘘みたいなんです。そこまではね楽屋からこう手を引かれて来る様に、いうならばヨボヨボのおじいさんです。けれども一度そのもう鳴り物と一緒に幕が上がった、そこで構えておる姿勢、そして花道を通って舞台に出る時のあの勢いというものはもう、本当に芸の力だなともう人間の力じゃない。いうなら鳴り物という一つのリズムに乗って、ぱぁっとこの体の姿勢まで変わってしまう。
 私共がねそしてこの15節を頂いて見てです思わせて頂くのに、ははぁ御用に取り組むという時には、このくらいなものがなからなければならないなと言う事であります。例えばお供えの一つでも、ちったあ垢抜けしたお供えでもさせてもらえれるという時にゃ、それが出来る事が本当に真であり真心であると同時に、それが有り難いというものでなからにゃいけないと言う事です。御用させてもらうのに眠り半分の御用させてもろうて良かろうはずがない。
 所がなら私共でも眠り半分の時もあると言う事、その眠り半分の時とそのいうならば、鳴り物入りのリズムに乗って舞台に出るあの役者の、いうなら粋とでも申しましょうか、という時は如何にも二人みる様にあります。楽屋から花道まで来る、それから花道から舞台に出る時はもう本当に二人見る様に違います。そこん所を私は今日私は二重人格じゃなかじゃろうかと思うた。だからけれども何時もその様にです、心は晴れているといった様な訳にはいけんのです人間ですから。
 私共が御結界にこうやって奉仕させて頂いとる時の気持ち。そうすっと又なら裏なら裏に下がっておる時の気持ち、ですから色んな難しいお願いがあったり致しますと、ならここでなら御結界に付きましょうかというて御結界に付いてから、皆さんの願いを改めて取り次いだり聞かせて頂いたりする。ですからここにおる時と勝手におる時の、自分ながら二重人格じゃなからろうかと思うくらいに違うですけれどもです。
 一度ならそのリズムを聞いたら、もうリズムに乗ってしゃんとするのですから、もう是は人間の技じゃないです。一つのリズムの勢い、リズムの力リズムのおかげ。だからそのリズムに乗れる迄の信心の稽古というのが大事なのです。と言う事はまあどう言う事かというとね、神様のお働き、生き生きとしたお働きの間違いなさと言う事を知る事です。ただ形式に4時の御祈念に出らにゃならん、拝まにゃならんと言う様な事であっては、私が日々感じておる様なものは感じ取る事は出来ないと思います。
 神様の言うなら働きを、生き生きとした働きをなら神様、そう言う生き生きとしたお方だから、こちらも生き生きとした心で、向かわなければ生きたものと生きた者との交流は無いんだと、いうなら理屈じゃないです。その生きた神様生きた働きを、というそこだけは確信しておらなければ、ここの確信が出来る迄は信心の稽古をさせて貰い、体験を頂き頂き、積んで行かなければならない。そこが解らせて頂いて言うならばなら幸四郎、松本幸四郎はですね。
 もうそれこそ松本の幸四郎の、あの連獅子は絶品中の絶品と、勧進帳の弁慶とかね、その連獅子の親獅子のなんかはそう言われた程しの、まあ立派な舞でした。そこまで稽古する迄がです、なら稽古もなんもしとらん者がです、なら体だけは踊りきるという者がですよ、例えばその、今日私が申します花道の、揚幕が上がった途端にシャンと体がなるでしょうか。絶対ならないです。ただ知っとるぐらいな事だったら。けれどもそれをもうそれこそ、何百回となしに踊り、踊って踊って踊り抜いてです。
 それこそ身の人が見惚れる様な踊りが出来る様にな、その鍛えというものが若い時からずっと出来ておってです、そこまで来る間は腰の曲がった様なヨボヨボのおじいさんですけれども、その音聞いたら一辺に体がシャンとする。矢張り稽古なら私共でもそうです。恐らく私はなら皆さんが、私が朝の3時半からこの4時の御祈念までの様な、気持ちにあなた方になれと言ったって、とても出来る方は一人もおるまいと思います。
 矢張り稽古が違う。そして神様の間違いなさとか、生き生きとした働きというものを、皆さんの誰よりも、私が強く深く知っておる。体験しておると言う事です。そこにいうならば目の覚めた様な、芸が舞台で踊りできます様にです、それこそ神様とのイキイキとした、交流がなされるというものもです、そういう例えば、御用の精神というものから、私は神のひれいいわゆる盛大又は神の威徳に触れる事が出来る。
 触れるということは交流する事が出来る。成程是なら、御徳をいやが上にも段々積んで行く事が出来るなあというて、それが何時もかつも出来る事ではないということですけれども。お互いがんならお参りをする、御神前に向かう、又は御用に打ち向かう。また御用の一つもさせ、いわゆる自分から自らです、氏子が真から用いるのはと仰る様にです、氏子が真から用いる使うて下さい、どうぞお使い下さいと、どうぞ使うて下さいと言うその心が真から出た物であるならばです。
 神の言うならそのひれいに触れる事が出来る。御用のいうなら後味が違う。おかげ頂いて有り難かったということになる。そういう私は御用をさせて貰わなければいけない。もちろん御用という事は、この体を使うて下さいということも御。お金のお供えをさせて頂く事も御用。物とか金とかね、神様の御用に使うて下さいというその姿勢がです、その真でなからなければならない。その真からの用いて下さいという信心姿勢がだんだん稽古が出来るに従ってです、
 今日私が申しました、自分は二重人格じゃなかろうかという、自分で自分を疑う様なね、あのどうしてこう言う事が出来るのであろうかと自分で思うくらい、それかというてそれが何時も出来るかというと出来ないからそう感ずるのです。皆さんでもそれは大体感じなさる方があろうと思うんですよ。是がお参りでなかならとてもこれ、外よこげなん事は出来んけれども、お参りだからこそ是が出来るんだと言った様な時もあるだろうと思うんですね。そういう心が弾んで神様へ足を向けて来る時です、ま
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